草熱れ
「やっぱりたい焼きのほうが食べたい」
列に並んでる最中、唐突に隣の君が呟いた。
最高気温は31度。今日もよく晴れていて、強い日差しに何度も目をしばたたかせた。
「え?かき氷は?」
「うーん…たいやきって文字を
ずっと見てたら食べたくなっちゃって」
洒落た趣ある暖簾を指す。
「ほんとに食べるの?こんなに暑いのに」
「うん、今はたい焼きがいい。
…いい?」
綺麗な黒。僕と同じ色のようで全く違う、
光沢を帯びた濡れ羽色の瞳。
こんな取るに足らないような事さえも
艶やかな眼差しで覗き込まれると、
僕はいつだって言いなりになってしまう。
でもそんな自分が、少しも嫌じゃなかった。
蝉の声が降り、
草熱れのする熱い空気に包まれながら
僕たちは並んでたい焼きを食べた。
明治時代から続く老舗なだけあって
それはとても美味しかった。
食べ終えるなり、僕の肩にもたれて
「あっつー」とあどけなく笑う。
話題の映画を観て、
他愛ない話でうんと笑って、
水上バスで小さな船旅に出た。
その旅先で暑い中熱いものを食べて、
ほらまた暑くなって。
結局のところ、今は冷たいものを求めて
思うままに商店街を歩いている。
気に入ったお店が見つからなくても、
長蛇の列に並ぶ羽目になっても、
決して損したなんて思わない、
楽しい時間に水なんて差さないよ。
僕の少し前を歩く後ろ姿は、
そう言ってるような気がする。
たくさんの人が行き交う中で、
誰よりもくっきりと輪郭を帯びて
自由に見えた。
「遅いー」
少し投げやりで語尾をルーズに伸ばす声に
慌てて、足を速める。
炎ゆるような、ある夏の日の冒険譚。
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